SNSで見る物事の捉え方のお粗末さから考える事


SNSの中で生きていると色々な人に出くわす。

その中で面白いのは表面だけ、字面だけで物事判断する事しかできない人だ。
テレビ新聞、インターネットなどで見た事実、見出しで物事全て判断し白黒つけてしまうという行動がそれにあたるのではないかと思う。

刺激的な見出しであったり、センセーショナルな出来事に過剰反応はするがその出来事の詳細については全く正確に捉えられていない。どういう事なのかという追求をしたり、出来事の意味などはお構いなしだ。それはそれで見ていて面白かったりもするのだが見ていて辛辣な事を言いたくなる時もある。

8月の下旬にある裁判が起こされた。
それは、「子ども・被災者支援法」に関して被災者の代表が国に対して提訴したというものだ。
先に「子ども・被災者支援法」に関して説明をしておくと・・・

2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故の被災者、特に子どもに配慮して行う生活支援等に関する施策の基本事項を定めることにより、被災者生活支援等施策を推進し、被災者の不安の解消及び安定した生活の実現に寄与することを目的とする。
(ウィキペディアより引用) 
というもので議員立法により2012年6月21日に衆院本会議で成立し同年6月27日に施行されたものである。この法律を根拠にし国が被災者生活支援等施策を策定し、それを実施する責務が課されているにもかかわらず国が施行から1年を経過した今もその責務を果たしていないと言う事で原告一人当たり1円の損害賠償を求めた裁判だ。しかしその損害賠償額をみればわかる通り目的はそこになく、その責務を法律通り果たすように求めるのが目的で裁判を通じて行政の不作為を是正させようとした。

この提訴に関する報道がされた日に、あるFacebookの投稿を目にした。

実際の投稿をキャプチャーしたもので見た頂きたいのだが、それはその提訴の事実の表面も捉えられていない酷いものだ。(投稿者の名誉のために投稿者の詳細は控える事にする。)

投稿の部分的な趣旨からいえば、その提訴は逆ギレである。いつまでも甘えるな。いつまでも人を頼るなという事なのだろうか。

今回は、その投稿のクオリティが問題ではなく物事の捉え方を問題としたいのでクオリティの部分には触れない事にするが、SNSを見ていると物事の捉え方のお粗末さが目につく。いや、鼻に付くレベルになってきた。

物事を捉えると言う事のスキルの低さの根源は何処にあるのだろうかと考える事がよくある。それだけ、そういうものを目にし耳にするという事なのかもしれないが、そのスキルの低さの原因を考えてると残念な思いに駆られるものである。それは、そこはかとない残念さだ。

それこそ、賛否覚悟で言わせてもらえばそのスキルの低さはこのブログでも話題にしたが昨今、社会問題化しつつある「バカッター」と言われるツイッターをはじめとするSNSでの問題行動にも共通する部分がある様にも思える。それは日本人の多くから「深く思慮する・深く考える」という行動が欠落してしまったと言う事ではないだろうか。それがSNSというものの普及により残念ながら露呈してしまったと言う事だろう。

自分が言いたい事をSNSで発言するのは良い事であるし、間違った行動とは思わない。しかし、自分が話をしようとしている事象に関して正確に捉え、場合によっては裏を取り自分なりの見解をしっかり話を出来る事がその条件になるのではないだろうか。そうしない限りSNSが「バカ発見マシーン」であり続ける事は間違いない。

因みに・・・。
この投稿、炎上するのかと思いきや炎上せずに類は友を呼んだのである。
それもSNSの立派な特徴ではあるのだが、投稿クオリティの低いものに集まる人々の思考クオリティも低いと言う事かもしれない。