反原発を唱える人々から聞こえてこないある事から考える

先に話しておきたいのだが原発に関しては賛成でも反対でもない。
むしろ、今の日本の産業構造の維持を考えた時にその代替となるものが見つかり、それが確立するまでは原発の存在自体是認やむなしというスタンスである。ただしその存在自体を肯定するものでもないというよく言えば中立、悪く言えば中途半端。そんなところだろうか。

さて、2011年3月11日以降、それを唱える人が増えてきた。
特に東京電力福島第一原発の問題が拡大してきてからは流行に便乗するかのようにそれを唱えファッションの様に反原発を唱える者まで出てくる。先の参院選では反原発を大衆レベルで叫び共感を呼んだ飛沫タレント候補まで当選する事となった。

反原発を唱える人たちからある事が聞こえてこない事にとてもアンバランスを感じる事はないだろうか。反原発の人々の論調の中に一つだけ大きく欠落しているところがあるのだ。確かに次期エネルギーについてもそうであるがそれよりも先に原発をすべて廃止・廃炉にした時の「原発労働者」の行く末だ。

社会を回す「ヒト・モノ・カネ」の内、「ヒト」についての指摘が何もないのだ。
生活者のための政党を自認する共産党ですらその点について明確な指摘が無い。非常に気になる。原発労働者は、ある試算では20万人、試算の仕方によっては40万人とも言われる。全ての原発を廃止・廃炉にしてしまった時に原発労働者と呼ばれる属性の末端にいる人々が一斉に「失業」の憂き目にあってしまう。

私は反原発のうねりが強くなった2年数か月前から反原発論者から反原発論者から聞こえてくるのは


しかし、原発労働者の雇用の行く末だけではなく原発に支えられた、原発を支えてきた自治体のこれからの在り方など最優先とも言える事項が考えなければならない事が忘れ去られている現状を見ていると反原発論者に同調する事は出来ないし何の説得力も感じないのだ。見ようによっては感情論だけでその流れが作られていたり政治の現場では支持を集めるために反原発論を作りだしている様にも見える。

反原発を唱えるならば関連する1つ1つの議論をしながらコンセンサスを得て反原発という1つのオピニオンを形成していく流れが確実に踏まれているのであれば理解もできるのであるが、それが無い反原発論は理解しかねる部分があって当然ではないだろうか。

そうした反原発論ではなく原発に関連する1つ1つを網羅する対策が提案されている反原発論というのを聞いてみたい。それに納得できるなら胸を張って反原発と言えるのだが、それが無い今はどうしてもニュートラルな立場を取らざるを得ない。

まず、原発を廃止した時にそれに関わる人と地域をどうするか。
そこを解決してからの反原発原発廃止論ではないだろうか。