根本を捉えない責任追及と問題解決の向かう先は・・・。

このところ、責任追及や社会問題の解決と呼ばれるものがよく行われている。
しかし、これらの在り方を見ていると首をかしげたくなるものが非常に多い。

例えば、最近様々なところで悪い話題を数多くふりまいているJR北海道
これに関してのマスメディアでの責任追及を見ていると本当に首をかしげたくなる。首をかしげたくなるどころか表面的に捉え過ぎていて一笑に付したくなる事すらある。それを通り超えて、不安になる事もある。

『叩きやすいところだけ叩く』
『表面的であっても良いので叩く』

結局それが世論を間違った方向に導くとしても、そんな事マスコミは知ったことじゃない。
と、言わんばかりの内容の報道が並ぶ。それを見た視聴者はJR北海道だけに責任があるという考えに落ち着く。それが間違っているかもしれないとも知らずにだ。

この件に関しての責任の所在に関しては、この記事では控える事にするが少なくともJR北海道だけにこの問題の責任を押しつける事が出来ない事だけは書いておく。

そもそも、何が原因であったのかというところを多面的に斬り込み、それを検証しながら責任の所在を明確にさせると言う作業が責任追及と呼ばれるものであるように思う。例示したJR北海道の件もそうであるが、どうもそれがしっかり行われていない様に思うのだ。

先述の通り、それが表面的であって叩きやすいところだけ叩くという事を続けた結果、単なる表面的な分かりやすさに終始をする事になり、大事な部分が抜け落ちていると言う事に視聴者は気づく事が出来なくなる。何故そういう問題が起きたのかという根本の問題を考える事もしなくなる。

根本部分の検証や追及が無くなる事によって事の本質から大きくそれていく。ミスリードをされ大きくそれていく事によって、『表面的にどうするか?』という議論に終始をしてしまい『問題の根治に向けた対策』という議論に入る事が出来なくなる。そうなれば解決への道のりが遠のくという事にもなる。

例えば、ブラック企業の問題。厚生労働省はどうも事の根本をしっかりとらえている様には思えない。また、事の根本から逃げている様にも見えなくはない。『労基署が動いてもブラック企業は無くならない現実』という記事でも記したように、そんな端緒をついたところで何の解決にもならない。問題の本質は彼らが対策をしようとしているところには無いからだ。

実際、現在表面化している様々な問題は矮小化されてしまっているものが多い。矮小化してしまったものはその範囲でしか解決をされない。矮小化された範囲で解決したものをそのまま放置しておけば問題は必要以上に肥大化して真の解決できなくなる。例えるならば誤診により見逃された『がん』と同じだ。結局は死を待つのみとなる。

そうなってからでは何もできない。
物事の根本を捉えると言う基本的な事を出来るようにしておかないと、どんな簡単な問題も解決が出来なくなってしまう。だからこそ、今の日本の姿があるとも言えるのだが・・・。


□追記
このエントリーを書いていて疑問が一つ産まれた。
「そんな責任追及の手法や問題解決の手法で何かメリットはあるのだろうか。」
これについて聞く事が出来るなら真顔で直球をぶつけてみたいという強い衝動に駆られています。