インターネット上で繰り広げられる批判とは何かを考えてみる

色々なモノを聴き、色々なモノを見ていると、どうも「批判」というものが先に立っている様な気がする。
今に始まった事ではないが「批判が先に立つ」というのは日本人の国民性のようにも思える。そんな事を書いている私も「批判が先に立つ」一人なのかもしれないが・・・。

インターネット上で繰り広げられている批判というものには怖さや危惧さえ覚える状況となってきた。中には度が過ぎて殺人予告をするような者まで出てきている事を鑑みるとそれは既に批判の域を超えている様にも思えてならない。

この頃、「一般的に言われる批判とは何か。」という事を考えている。
そこでいつも通り仮説を立ててみる事にする。

◆仮説その1 改善を求める為の言動
◆仮説その2 自分を守るための武器

1つ目は極めて健全。物事の改善を求める為に起こす行動だ。
2つ目は抵抗という事だろうか。抵抗する為に相対する勢力に自らの意見や立場が侵されないように使うテクニックなのでどちらかというと保守的思考が強く働いていると言う事になるだろうか。これもどちらかと言えば健全。

という事でこの2つについては何処かで繋がるところもあり、どちらかと言えばコミュニケーションとしての手法・技術という事なのかもしれない。

◆仮説その3 快楽
批判という名を借りた攻撃をする事で満足をし何処か快楽にも似た何かを無意識のうちに得る。

批判と言う行為がいつしか悦に入る為の行為に変ってしまったのではないかという見立て。
批判をする事でそれが一種の快楽となりその快楽を繰り返す事で快楽と満足が持続する様になってしまったので止める事が出来なくなった状況。そこに対案も自分の立場を守ると言う大義名分もなくただただ粗を探して批判の名を借りた攻撃をしているかのような状況でどちらかと言えば病的にも見える。

という仮説の下に考えていくと、批判というものが少し見えてくるようにも思う。
では現代やインターネット上における批判というものを考えた時に、どうも「仮説その3」がそれにあたる様に思える。「仮説その1・その2」はどちらかというと現代においては「議論」という別の括りになってしまう様な感じかもしれない。

そこで辞書で「批判」という言葉の意味を調べてみる事にした。
①物事に検討を加えて、判定・評価すること。
  「事の適否をする」「力を養う」
人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
  「周囲のを受ける」「政府をする」
哲学で認識・学説の基盤を原理的研究し、その成立条件などを明らかにすること。
 (引用:大辞林
という事になる。
「仮説その1・その2」は調べた内容に合致するところもある様に見える。問題は「仮説その3」だ。
批判をするという意味とは大きく隔たりがある。意味を調べると少なくとも快楽を得る様な括りなど存在しないのだ。一般的に言われる批判とは「仮説その3」であるとするならば、全く違う事になってしまう。
改善を求めているわけでも評価をしているわけでもない。完全に攻撃だ。

一般的に批判とされていると思われる「仮説その3」は何なのか。
という疑問にぶち当たる。そこで類似する言葉の意味を調べてみる事にした。
◆批評
物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。
「論文をする」「印象
◆批難
人の欠点や過失などを取り上げて責めること。「不実な態度をする」
 ここで答えが出た。
「仮説その3」は「批難」という言葉で括るのが正確なのである。

一般的に言われる批判と言われるものが批判ではなく、批難でありそれが行き過ぎた攻撃であり口撃になってしまっている事になる。そしてその行動によって快楽を得て悦に入る事で何かしらの満足を得る為に行っているものだとすれば「人間としての考え方に大きな欠陥」がある。もしくは「欠陥が生じた」と言う事なのかもしれない。

では、何故こんな事になってしまったかと言えば至極簡単な話だと私は思っている。
「インターネットにおける匿名文化」

これが大きなファクターになっている事に相違ない様に思う。
その証拠に何故FacebookをやらないのかとFacebookが流行り出した頃に聞くとこんな答えが多く帰ってきた。
  • 匿名じゃないから言いたい事が言えない。
  • 実名でやって自分の言った事に問題が起きたら困る。
  • 誰が見ているか分からないから実名はお断り。
日本人は匿名という見えない力を借りて言いたい事を言ってきたのだ。何故そんな事になったのかと言えばインターネット黎明期からの流れであり大昔からの日本文化が強く作用している事には間違いない。しかし、自分の名前を出して批判を出来ないのであれば、人の批判や批難をする事などやってはいけないのである。

だけど日常生活の中では実名で一個人として人を批判し批難し攻撃をしている。
それは何かと言えば、噂話の中に出てくる批判や批難がそれにあたる。そういう事が出来ておきながらインターネット上では実名で出来ないなんてのは矛盾しているとは思わないだろうか。

今、インターネットで行われている「批判」というものを見た時にそれは限りなく「仮説その3」に当てはまるモノばかりで自己の欲求を満たし「快楽を得る為の道具」として批判を行っているようにしか思えない。

現代人が「批判」として捉えている行為は「快楽を得る為の道具」であり、それに「批判」という仮面を被せて正当化させただけなのである。そんな行為を繰り返すのは愚かなことだと早めに気づいた方が身のためである。