見切りをつけることは発展的解消なり。
そういえば、この頃ゆっくりソーシャルを触る暇もない。
いや、暇を作れていないという方が正確なのかもしれない。気分的なものだったり時間的なものだったりいろいろな理由があるわけだが依存していたわけではなく、それまでソーシャルの中で大きな時間を過ごしていた身としてはどこか生活に張りがなくなっていることも否定できない状況になりつつある。
今年は大きな環境の変化を迎えたわけだが、その環境の変化から4ヶ月を迎えた。
その4ヶ月目にしてオカシなことに直面をしている。中身は言わないにしても正直なところ怒りがこみ上げてくるような中身だったりする。何故こんなことになるのか、不思議なくらいのオカシなことなわけだが。
それはさておき・・・。
人間という生き物は環境の変化の連続を生きていく生き物だと私は思っている。
しかし、時として様々な要因が重なり環境の変化の連続を生きることができなくなる時がある。その時、人間は急激なパフォーマンスの低下を迎えるわけだが、実はパフォーマンスの低下を迎えないために一つ大事なことがある。
例えば、何かの集団に飛び込んだとしてその環境に馴染めなかった時。
有り勝ちなのは、馴染もうとしてジタバタしてしまうという悪循環。実はこんな時はジタバタしないほうが良いと私は思っている。では、どうするか。
私なら・・・
誰に何を言われようと我が道を行く。それでもダメなら、その集団には見切りをつけるということにしている。忍耐とか努力という言葉が好きな日本人の場合は、最後の見切りをつけるという行為ができずに壮大な迷路に迷い込んでしまうことが多い。
結果自分で解決の糸口を見つけることができず、いろいろな弊害を生んでしまう。
人間、そんな弊害を生んでしまってからでは遅いわけで、見切りをつけるときは早く見切りをつけたほうが良いのである。見切りをつけるべき集団というのは、取り立てて魅力のある集団でもなく、そこに所属をするだけの価値がない集団であることの方が多かったりもする。
正しい判断ができるならば、そんな集団には見切りをつけることが将来の選択肢を増やすことになるのかもしれないと思う師走も末に近づいた徒然・・・。
見切りをつけるのは、逃げではなく発展的解消とでも捉えたほうが良いに違いない。
(なんて書くと自分が少し楽になるとでも思ったかこんなことをツラツラと書いてしまった。)
すまん。
久々にわけのわからないことを書いてしまった・・・。