ものを書く上で心掛けること

これまでと少し違う事を書いてみたいと思う。
インターネット利用者拡大と共にそれまでと比べて多くの人のオピニオンを自分がPCの前に座り少しの操作をするだけで目にできるようになった。便利な時代であり私が社会人になった20年弱前と比べても大きな変化である。

急に話は変わるが・・・。
私は創作は書かない。だから故に心がけている事がある。それは、根拠に基づき書くこと。
根拠があるからこそ説得力がありその文章に厚みが増すように思うのであるが、最近目にしたものを振り返ってみると、どうもその根拠が稀薄になっている様な気がするのだ。

根拠になるものは色々ある。
例えば、それまでの経験であったり、意見しようとしているものに関する仕組であったり。根拠になるものはその時に書き記す内容によって千差万別なのではある。しかしながら色々な媒体に記してあるものを目にする度にその文章の根拠の乏しさに辟易とするのだ。

何かを批判する様な意見を書き記す時は批判する対象の仕組みを調べた上でそれに関する批判を書き連ねていくというのが当たり前の行動と私は考えるのであるが、どうも違う人が増えている。何故そんな事になってしまっているのか仮説とまではいかないがそれに近い物を立てて考えてみた。

①感情を前に押し出してしまう。
例えば嫌いなものに関して批判をする時に批判をする対象が「嫌い」と言うだけで批判をする対象物の仕組すら知らずに感情だけで動いてしまう。

②感情と事実の切り分けが出来ない。
感情と事実がごちゃ混ぜになってしまって何が事実なのかが分からないうちにものを書きなぐってしまう為に根拠も何も無くなってしまう。もし根拠があるとすれば自分の感情だけ。

いつも3つくらいの仮説や根拠に基づいて話をする事が多い私なのではあるが、実はここで詰まってしまったのである。これまでは感情が為せる業でその様な事が出来るのではないかと考えていたから。
しかし、ここ2年位目にしたものを色々思い出していたら3つ目が思いついた。

③流行に流されてしまって
周りの人たちの中で流行っているから根拠なんか関係なく書いてみたために、そもそも根拠なんてものはない。根拠なんかいらない。

①や②というのは書く事を仕事にしている人にも多かったりする。
そしてその筆者に近い考えを持つ人たちの支持を得る事が出来るが中身をみるとどうにも内容の薄い駄文にも見える。
最悪なのは③。例えば反原発なんかがその好例のように思える。
流行で書いているので根拠に乏しい、あるいは何も分からず周りが言っているからというものも多く目にした。

小説やポエムといった創作以外のものを書くという事はプレゼンテーションだ。
プレゼンテーションには必ず根拠が必要であり根拠に乏しく感情が優先したものは与太話にしかならない。
この頃、色々なものを見るにつけ根拠に乏しい与太話で右往左往しなければならない日本人が本当に可哀想でならない。